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学ぼう <江戸東京の文化> そして、未来へ

  

江戸名所図会を歩く

 上野公園の名所図会探索、後半はJR鶯谷駅からの出発です。将軍家の霊廟であったことを強く印象づける遺構の勅額門を手始めに、現寛永寺まで行って、南に下ります。この界隈は動物園通りを下っても、また国際子ども図書館や黒田記念館などのある通りを抜けても、公園の中心部分を外れているので訪れる人の姿は少なめです。コロナ禍ではなおのこと、動物園の行列もなく静かなものでした。

【取材】歩いた人(文・写真):広報部会・中村貞子


その53[東叡山寛永寺](後)

   挿絵:長谷川雪旦  ▲清水堂 花見図

所要時間: JR鶯谷駅南口下車(3分)嚴有院勅額門(4分)常憲院勅額門(2分)寛永寺本堂(8分)護国院(8分)東照宮(2分)お化け燈籠(2分)時の鐘(1分)大仏山(1分)花園稲荷(3分)清水観音堂(1分)天海僧正毛髪塔
JR鶯谷駅から新坂を登り、寛永寺霊園に沿って歩いていくと嚴有院霊廟勅額門が見えてくる。この門は元は上野にあった大猷院霊廟の勅額門であったそうだ。 寛永寺第三霊園入口に突き当たった奥に常憲院霊廟が。勅額門と水盤舎が現存。右側の林が霊廟で、見学もできるが、現在はコロナ禍で休止中。
常憲院勅額門を後に、道なりに左に行くと現寛永寺の裏門に入る。入ってすぐに瀟洒な板と漆喰の塀が続く。左は、寛永寺本堂。 塀の中の建物は徳川慶喜が大政奉還後謹慎した大慈院「葵の間」のある書院。東日本大震災で、建物や塀にダメージを受けて、修理されたそうだ。
隙間からカメラを入れて「葵の間」と思われる所を撮る。 現寛永寺本堂。明治10年(1877)天海ゆかりの川越喜多院の本地堂(寛永15年築)を旧寛永寺子院の大慈院跡に移築した。
竹の台にあった根本中堂の唯一の遺品、霊元天皇宸筆の勅額「瑠璃殿」。 本堂前、左右にある竹の台といわれるこの囲みは、今の噴水広場辺りにあった根本中堂前にあったものから移植された。
左側の竹の台。水盤もかつての根本中堂に奉納されていたもの。 寛永寺本堂右側にある赤い祠と大きな石碑は?
了翁禅師の坐像を祀った祠と、業績を刻んだ顕彰碑。(写真選択→拡大) 了翁僧都。堂々としたお姿。
寛永寺を出て、芸大に沿って歩いていくと護国院に。旧寛永寺の最初の子院だったという。今は谷中七福神の大黒天で有名。 寛永元年博物館東部に創建、同7年釈迦堂が落成して護国院が完成したが、将軍廟が建立されるたびに移転を繰り返した。
境内片隅にかわいい大黒天を発見。 護国院から動物園との間の坂道を降っていくと、東照宮不忍口の鳥居がある。石段を登っていくと正面に五重塔が見えてくる。横の道は社殿への参道。
平成26年に修復が終わった東照宮社殿の唐門。まばゆいばかりに黄金色が輝く。 東照宮正面鳥居を右に出たあたりにお化け燈籠。同型の燈籠が京都南禅寺と名古屋熱田神宮に奉納され、日本の三大燈籠といわれる。
精養軒入り口近く左側の小高い丘に時の鐘。 時の鐘の向かい側には大仏山。今はお顔だけで、合格祈願の参拝が増えているとか。
明治6年までは大仏殿まであったとは。(写真選択→拡大) 大仏山を降りると右側に花園稲荷がある。
花園稲荷の旧跡、穴稲荷。赤い鉄製の扉を押し開けて入っていく。 狭い空間の奥に小さな祠が。
清水観音堂。現存の旧寛永寺建造物で最古。広重にあやかって月の松も復元。 観音堂の参道を上野の森美術館方面へ。王仁博士碑を経て、天海僧正毛髪塔が見えてくる。この場所はもと寛永寺発祥の地、本覚院跡になる。

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